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シン・ゴジラの感想

こんにちは。私は生きています。皆さんは生きていますか?

 

生きるということは健康で文化的な最低限度の生活を送っていると言うことなのでシン・ゴジラの話をします。

 

これから書くのは考察でも批評でもなく、ただの感想です。特撮ファンでも熱心な映画ファンでも無い人間の与太話です。それでも読みたい暇人がいればどうぞ。

 

 まず端的に言うと面白かったです。

 ハリウッドでもリメイクされたことのある日本を代表する特撮映画であるゴジラの新作をエヴァで有名な庵野が監督するという、現代日本サブカル的にハイコンテクストであるはずの作品ですが、おそらく文脈を踏まえていなくても楽しめます。もちろん自分の中に参照点があった方が楽しめるのかもしれませんが、それは過去の自分の責任なので諦めましょう。人生諦めが肝要です。

 シン・ゴジラですが、基本的に「リアル」な日本を舞台にゴジラが急に出てきたらどう対処するのかというシミュレーション的な体の話の進み方をします。リアルに「」がついてるのは、まあそういうことです。単語が不自然に強調されてるときは、それは嘘ですよって印なので、中高生専用SNSをやってるような子どもたちは書きたくない反省文を書くときに、内心と違う気持ちには「」を付けて書くと精神衛生上良いかもしれませんね。

 で、「リアル」の話です。この映画は前半部分、というか宇多丸言うところの四幕目までは、ゴジラという災厄をリアルに描くことを非常に心がけられた作品です。怪獣が来たら一般人は無力です。死にます。今回のゴジラは強いので自衛隊もほぼ無力です。死にます。死亡フラグというかエクスキューズとかなくゴジラのせいで人が死にます。そういった災厄に対し、対処するべき日本の行政がどう行った行動を取るのかというのが延々と描かれるのですが、まずもってこの映画はドキュメンタリーではなく大衆向け娯楽作品なので「そうはならないよな」ってことが多々起こります。例えば序盤、海から突き出たゴジラの尻尾だけ見て、尻尾であると判断するシーンとか謎です。多分、尻尾か角か触手か判断できないです。あとゴジラが2回目来るときに形態が変わっているのですが、それをあっさり同一個体だと判断する登場人物たち思慮が浅すぎます。普通ならどう考えても別個体の可能性を考えます。そういう風に色々と粗というかツッコミどころが頻発するので、見る側の心にはシコリというか心配みたいな気持ちが、浮かんでは消え浮かんでは消えていきます。

 リアルを装いつつリアルでない部分がチラチラ見えるせいで、この映画面白くないかもと思っちゃうんです。でもまあご愛嬌かな、会議シーンとかの会話劇面白いしな、とか自分の心をごまかしたりしながら見ていると、ぶっ飛ばされます。何に?ゴジラに。

 この映画、僕の中で3つ凄く良いところがあるんですけど、3つの中でも飛び抜けて良いのが、ゴジラが恐いってことです。圧倒的にゴジラが強い。そのことが「リアル」な恐怖となってそれまでの粗を忘れさせます。シンとはどういう意味であるかは解釈次第ですが、ゴジラモーションキャプチャ元になった野村萬斎庵野樋口コンビからシンとは神であると言われたみたいですね。圧倒的に強いゴジラ人智を超えた存在として描かれ、そこに自ずと生じる観客の畏怖の念のようなものが、映画全体に説得力を持たせています。

 で、この恐怖の存在をどう片付けるかという話になるのですが、そこからの話の筋もまたツッコミ所が満載です。どうよそれ、みたいな展開のオンパレードです。所謂ご都合主義的に気持ちの良い(のが気持ち悪い)感じで話は結末を迎えるんですけど、あそこを諸手を挙げて褒める人とは仲良くなれないかもしれません。言い過ぎです。仲良くなれるので仲良くしてください。

 まあそんな終盤ですが良ポイント3つのうちの1つがあります。みんな大好き無人在来線爆弾ですね。心の中が晴れやかな気持ちになります。素晴らしさに溢れています。今もう一度シン・ゴジラをみたい理由の90%は無人在来線爆弾のシーンを見たいからですね。皆さんも見ましょう。

 

 

3つのうちのラストはもうよくわからなくなったので何でもいいです。会議とか竹野内豊とか石原さとみのキャラとか蒲田のあいつの見た目とか、そういうやつです。

皆さんの心の中にもそれぞれの3つ目があるのかもしれませんね。

それでは。

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